希望と願望との違いを客観的に見る癖をつけておかなければならない。
希望と願望との違いを客観的に見る癖をつけておかなければならない。
「測る」とは、勝利条件の設定にほかならない
犠牲の対価が成功、という勘違い
できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる
人生は可能性を減らしていく過程でもある
「割り切った」 「諦めた」 「逃げた」
人生は可能性を減らしていく過程でもある。年齢を重ねるごとに、なれるものやできることが絞り込まれていく。
人は場に染まる。天才をのぞき、普通の人がトップレベルにいくにはトップレベルにたくさん触れることで、そこで常識とされることに自分が染まってしまうのが一番早い。人はすごいことをやって引き上げられるというより、「こんなの普通でしょ」と思うレベルの底上げによって引き上げられると思う。
全力で試してみた経験が少ない人は、「自分ができる範囲」について体感値がない。ありえない目標を掲げて自信を失ったり、低すぎる目標ばかりを立てて成長できなかったりしがちである。
本当は生まれたときから無限の可能性なんてないわけだが、年を重ねると可能性が狭まっていくことをいやでも実感する。
人間には変えられないことのほうが多い。だからこそ、変えられないままでも戦えるフィールドを探す
人生は暇つぶしだと思ってから、急に自分が軽くなって、新しいことをどんどん始められるようになった。 たかが人生、踊らにゃそんそん、である。
真剣勝負を避けると、現状維持こそがベストという風潮につながりやすい
世の中の評価は移ろいやすく、褒めてくれていた人が手のひらを返したように冷たくなったり、貶しめていた人がいつのまにか持ち上げてくれていたりと、自分ではコントロールできない。だからこそ、自分の中に軸を持つことが大事なのだ。
どんなに否定しようとも、才能による格差はなくならない。
「諦める」という言葉の語源は「明らめる」だという。 仏教では、真理や道理を明らかにしてよく見極めるという意味で使われ、むしろポジティブなイメージを持つ言葉だというのだ。
失敗を共有するためには、失敗した直後、記憶と感覚とが新鮮なうちに失敗した原因について分析し、そのときに思っている気持ちと一緒に吐き出すのが重要な気がする。
どんな分野においても「あの人はすごい」と言われるような人は、無意識と意識のバランスが普通の人に比べて格段にいいように見える。勘にゆだねるときはゆだね、論理的に詰めるときは詰める。無意識にその塩梅を判断しているところが「すごく」見えるのだ。
「コーチと選手の関係は、客観的な目と練習のプランをアウトソースしているものだ」
努力には、「どれだけ」がんばるか以外に、「何を」がんばるか、「どう」がんばるか、という方向性があるということ
競争から解き放たれた人と、競争から逃げた人は違う。自分なりの幸せに気づいた人と、負けるのがいやで競争を否定している人も違う。優劣はないと心底信じるためには、自分自身を徹底的に肯定できないと難しい。僕の感覚では、その自己肯定に至る作業はどんな競争よりも厳しいものだ。
人には、自分が今歩いている道の横に、並行して走っている人生が必ずある。
「ある分野で優秀な人間は、違う分野に行っても優秀なはずだ。裏を返せば、この分野でだめだったおまえが、違う分野に行ったってどうせだめなんだよ」
希望と願望との違いを客観的に見る癖をつけておかなければならない。
さほどがんばらなくてもできてしまうことは何か。今まで以上にがんばっているのにできなくなったのはなぜか。そういうことを折に触れて自分に問うことで、何かをやめたり、変えたりするタイミングというのはおのずとわかってくるものだと思う。
人生は可能性を減らしていく過程でもある。年齢を重ねるごとに、なれるものやできることが絞り込まれていく。可能性がなくなっていくと聞くと抵抗感を示す人もいるけれど、何かに秀でるには能力の絞り込みが必須で、どんな可能性もあるという状態は、何にも特化できていない状態でもあるのだ。できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる。
「測る」とは、勝利条件の設定にほかならない。どうすれば勝ちなのかが決まって初めて戦略が生まれる。
目的さえ諦めなければ、手段は変えてもいいのではないだろうか。
最高の戦略は努力が娯楽化することである。そこには苦しみやつらさという感覚はなく、純粋な楽しさがある。苦しくなければ成長できないなんてことはない。人生は楽しんでいい、そして楽しみながら成長すること自体が成功への近道なのだ。
人間の脳には意識できる領域以外にも記憶があって、僕はそれが勘と呼ばれるものではないかと思っている。自分でも気づかない、これまでの経験や情報の蓄積が無意識の領域で結びつき、「何となく」という感覚で私たちの意識の領域に現れる
極端なことをいえば、勝ちたいから努力をするよりも、さしたる努力をすることなく勝ってしまうフィールドを探すほうが、間違いなく勝率は上がる
最高の戦略は努力が娯楽化することである。
まずは「自分はこの程度」と見極めることから始め、自分は「何にでもなれる」という考えから卒業することだ。そこから「何かになる」第一歩を踏み出せるのではないだろうか。
やめる決断をするときには、誰もがその後の人生を考えて不安に苛まれる。 その不安が、決断にブレーキをかけることもある。
感覚的な話になってしまうが、新しい人生においてもすでに七割ぐらいのところまではきているような気がするのだ。そこからスタートして足りないものを埋めていく。そうした感覚が持てるかどうかが、シフトしたあとの人生にとって重要な気がする。
何かを真剣に諦めることによって、「他人の評価」や「自分の願望」で曇った世界が晴れて、「なるほどこれが自分なのか」と見えなかったものが見えてくる。
人生は長く勝負は無数にある。負けない工夫より、負けにふてぶてしくなるほうが最後は強い。
だから、Aという道を行きたければ、Bという道は諦めるしかない。最終的に目的に到達することと、何かを諦めることはトレードオフなのだ。何一つ諦めないということは立ち止まっていることに等しい。
人生は暇つぶしだと思ってから、急に自分が軽くなって、新しいことをどんどん始められるようになった。 たかが人生、踊らにゃそんそん、である。
人間が墜ちていくときには、そんなに大きな出来事があるわけではなく、越えてはいけない一線を、ほんの少し越えてしまった瞬間にズルズルと墜ちていく。