QsfromBooks
電子書籍名言・引用まとめ

発想は必要だけれど、びっくりするような新しい鍵ではなく、持っている鍵を順番に試してみるだけのチャレンジになってしまう。こうして、数学やクイズの問題が面白くなくなる

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか(新潮新書)

森 博嗣

Quotes List

発想は、問題を解く鍵(特に最初の扉を開ける鍵)となるもので、数学やクイズが好きな人は、一度でもその鍵を開けたことがあれば、一生忘れないはずである

テストの問題を考えてみると、「発想」が必要な教科は、ほぼ数学だけである

「わかる」とか「理解する」ということを、現代社会は重視しすぎている

もしも明日死ぬなら、と考えられる人は、もしも永遠に生きられるなら、とも想像できるということである

遠くに目標が見えているのに、目の前に道があれば、方向が違っていても、もう今の道を歩くしかない、となってしまう。そのうち、下ばかり見て、道しか見なくなる。

自分を縛っている縄の一方は、自分自身が握っているのだ

そもそも人が生きている、人を活かしているものは、抽象的な、ぼんやりとした理由でしかない

ただ、なんとなく、生きていた方が良いような気がする。

「子供にだけはちゃんと学ばせたい」なんて甘えた考えは捨てた方が賢明だ。自分にできないことが、子供にできるはずがない、と考えた方がずっと現実的だろう

抽象的なものから出発して、それを具体化していく行為を「作る」あるいは「創る」と呼ぶのである

教育が抽象的思考を阻害する可能性があることを、まず自覚しなければならない

言語というものが、コミュニケーションの行き違いを防ぐために、意味を限定する性質を持っている

人の評価を気にする人は、ただ人と同じ気持ちを共有したい、という感情で作品に触れているだけだ。それは、みんなが笑っているから私も笑う、というロボットのような動作であって、人間の感性のすることではない。

抽象的に考えるというのは、簡単にいえば、ものごとの本質を掴むことで、見かけのものに惑わされることなく、大事なことはどこにあるのかを探すような思考になる。

たとえば、「もっと具体的に説明してくれ」と要求されることは多いのに、「もっと抽象的に話してくれ」と言われたことがある人は、まずいないだろう(実は、研究者の間では、このように言うことがあるし、有名な数学者が弟子にこう諭したという逸話も聞いたことがあるが)。

抽象化する力が不足している人は、創作するものが、人真似になるだろう。自然にそうなってしまう。それは、まだ具体的なものに囚われている証拠で、自分が目指すものが、充分に抽象化されていないことを示唆している。

抽象的に人を見る人は、好き嫌いで人を判別せず、「この人からなにか自分に得られるものはないか」という興味を絶えず持っているものである。好き嫌いだけで判断していないために、「思慮深く」なる。そして、この「思慮深さ」というものは、思慮が浅い人にはまったく認識さえできない。

人間というのは、幻想によって元気を出している、といっても良いかもしれない。

「悩むことが損だ」というのは、僕には理解し難い。悩んで損をしたことなんて一度もないからだ。「時間の無駄だ」というが、ぱっと明るくみんなと酒を飲むよりも、よほど人生にとって有意義だとも思える(おまけに経済的だ)。

これはちょっと思いつかないな、という喩えが優れている。だから、「蝶のような花弁」なんていうのは落第だ。もっと、連想が遠くへジャンプしていなければならない。聞いた人は、「え?」と一瞬感じるが、しかし、「ああ、なんとなくわかる」となる、そんなぎりぎりの線がベストである。

この「発想」を掴んだときには、「思いついた!」といった感動はない。なにしろ、ぼんやりとしていて、まとまっていない。具体的ではない。逃さないように集中して考えるうちに、次第に具体的な枝葉が現れる。その後は、実験をしたり、確認のための計算をしたりしているうちに、その本筋がようやく自分のものになるのだ。だから、「閃き」という言葉のような明るさはなくて、遠い雲の上の稲妻のように「明るさが見えたような気がする」だけだ。そして、一瞬あとには、以前と同じ真っ暗闇が広がる。その暗闇の中で必死で探し続ける時間がしばらく続く。 そこにあるのは、「歓喜」でも「満足」でもない。ただただ「不安」と「緊張」がある。

注意したいのは、芸術を評価する目というのは、裏データを知る必要がないことである。その作品は誰が作ったのか、どんな経緯で作られたものか、社会でどう受け止められているか、というデータを知ってから評価するのでは遅い。そういったものを一切捨て去ることが、芸術を見る審美眼であり、まさに抽象である。頼りになるのは、自分の感性だけだ。これをしなければ、芸術に触れる意味がないとさえ思われる。

成熟した社会であれば、いろいろな意見が出て、それを公開できるはずだし、冷静に、喧嘩腰にならずに、議論ができるはずなのだ。それができないのは、僕には「遅れている国だな」としか思えない。

現実がどんな状況であっても、肉体がどんな状態であっても、思考は自由であり、いつでも楽しさを生み出すことができるはずである。

ようするに、抽象的思考は論理的思考と具体的行動がセットにならなければ、問題を解決できない。

「わからないよりはまし」ではなく、「わかるより、わからない方がまし」なのである。

僕の友人には、自殺してしまった人が数人いる。周囲の誰も、彼らを救うことができなかった。たぶん、彼ら自身しか、救えなかっただろう。多くの場合、自殺する人の思考は、主観的であり、具体的すぎる、と僕は感じている。

行動をするときには、自分の抽象的な思い、あるいはその思いの一部を、具体的なもの、すなわち、手が届く範囲に実在するものに関連づける思考が必要となる。

しかし、若者の「はっきりしない思考」というのは、とても価値があるものであって、それを失ったのが「年寄り」なのである。 「まだぼんやりしてろ」「もう少し抽象的に話してくれ」と若者に言える年寄りになりたいものである。

人生を楽しむためには、この虚しさと親しみ、明日死ぬと思って毎日行動することだし、また、永遠に生きられると想像して未来を考えることである、と僕は思う。

「~力を育てる十の方法」というように、個数まで示されているものもある。これが「千の方法」だとうんざりするが、「たった十ならば、できるかも」と思わせるトリックだ。どうせ具体例ならば、せめて千くらい挙げてくれたら、少しリアルだと僕は思うが。

行動をするときには、自分の抽象的な思い、あるいはその思いの一部を、具体的なもの、すなわち、手が届く範囲に実在するものに関連づける思考が必要となる。この思考は、論理的な計算に近いものになる。 

だから、その一部を少し変えてみる。「もしも、~だったら」といった具合に、仮定した上でどうなるのかを真剣に考えてみるのである。 この「もしも」は、まったくありえないこと、非現実的であってもかまわない。たとえば、「もしも、人間が水の中で生きる動物だったら、社会はどうなっているのか」みたいな感じである。

抽象化によって、適用できる範囲が広がり、類似したものを連想しやすくなることである。これによって、ある知見が、まったく別のものに利用できるチャンスが生まれるし、また、全然違った分野から、使えるアイデアを引っ張ってくることも可能になる。思い当たることがある人は、きっと抽象的思考が既にできているといえる。

この「発想」を掴んだときには、「思いついた!」といった感動はない。なにしろ、ぼんやりとしていて、まとまっていない。具体的ではない。逃さないように集中して考えるうちに、次第に具体的な枝葉が現れる。その後は、実験をしたり、確認のための計算をしたりしているうちに、その本筋がようやく自分のものになるのだ。だから、「閃き」という言葉のような明るさはなくて、遠い雲の上の稲妻のように「明るさが見えたような気がする」だけだ。そして、一瞬あとには、以前と同じ真っ暗闇が広がる。その暗闇の中で必死で探し続ける時間がしばらく続く。  そこにあるのは、「歓喜」でも「満足」でもない。ただただ「不安」と「緊張」がある。

Twitter 3 48 Rss 3 48 follow us in feedly
スポンサード リンク